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生稲晃子 [芸能]

1986年、アイドルグループ「おニャン子クラブ」に入り、芸能活動を始めた。グループ解散後は、女優や歌手としてテレビや舞台などで活躍。結婚して長女を出産し、仕事と育児に追われる日々を送っている。

 がん検診は毎年のように受けていたが、2010年は忙しさから予約を入れ忘れた。知り合いの医師に勧められ、11年1月、人間ドックを受けた。

 すると、「再検査」の通知が届いた。精密検査を受けると、右胸に小さながんが見つかった。医師から告知を受けたときは、「ドラマのワンシーンを撮影しているような感じでした」。自分のこととは思えず、涙も出なかった。

 当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。「がんの公表は、健康番組のイメージに合わない」。そう考えて公表しないことにした。

 5歳だった娘には言うべきかどうか悩んだ。「この子なら理解してくれる」。直感的に思い、自宅のソファで話をした。

 「ママのおっぱいの中に悪いものがあって、取らないとママは死んでしまうかもしれないんだよ」

 娘は「ママが入院するのは嫌だ。死ぬのは嫌だ」と泣いた。だが、後になって話しておいてよかったなと実感した。「ちゃんと理解をして成長してくれていると思うことが、何度かありました」

生稲晃子さん 乳がん再発繰り返し全摘へ 右胸にそっと触れ、「ありがとう、さようなら」と…
写真・米田育広
切除して1年後 再発
 2011年3月に見つかった右胸のがんは小さかった。5月、がんを切除する手術を受けた。

 当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。がんのことは公表せず、手術を受けて退院した翌々日には、普段と変わらぬ元気な姿で収録に臨んだ。

 「せっかくレギュラーで起用してくださっている。外見に変化があるわけでもなく、今まで通り、やれるところまでやってみようと思いました」

 この年の7月には放射線治療も始まった。暑い中、1か月以上にわたり病院に通うのはつらかった。しかし、仕事に行くと、気持ちを切り替えられた。

 「病気になると、孤独感や疎外感を持ってしまいがちです。仕事場でも家庭でも、自分の言葉や働きを待っていてくれる人がいて、必要とされていると思う気持ちが、病気に打ち勝つ薬になるのかなと思います」

 仕事を続けていたからこそ、治療も頑張れた。

 放射線治療が終わると、ホルモン治療を開始し、薬を飲み始めた。だが、12年、再び右胸にがんが見つかった。

 「がんを取り、放射線も当てていたのに……」。体の中にあるがんのしつこさを知り、最初に告知を受けたときよりも気持ちが沈んだ。9月に再び、がんを切除する手術を受けることになった。

2012年9月、右胸にがんが再発していると告知され、すぐに切除する手術を受けた。ホルモン治療を続けたが、13年秋、三度(みたび)、がんが見つかった。

 再発を繰り返し、「命のことも考えていかなければいけない状況にある」と感じた。主治医は右の乳房を全摘し、同時に再建する手術を提案した。

 45年間、苦楽を共にしてきた体の一部を、自分が生きるために取り去らなければならない。右胸に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、主治医の前で初めて泣いた。だが、「娘のために責任を持って生きていかなければ。死ぬわけにはいかない。ずっとそばにいてあげたい」。すぐに決断した。

 全摘手術を12月末に行うことが決まると、娘が銭湯に行きたがっていたことを思い出した。

 「右胸がなくなったら、人前で裸になる勇気は持てないかもしれない」。手術の5日ほど前、手をつないで銭湯に出かけた。娘は広い風呂に入れてうれしそうで、その様子を見ているだけで楽しかった。「時間が止まってほしいという思いでした。楽しくもあり、悲しくもある思い出です」

 手術前日に入院した。その日の夜、病室で一人、鏡に向かい、右胸にそっと触れた。

 「ありがとう、さようなら」――。そう言って、別れを告げた。

生稲晃子さん 乳がん再発繰り返し全摘へ 右胸にそっと触れ、「ありがとう、さようなら」と…
写真・米田育広
「公表」で気持ちも楽に
 2013年12月、右胸を全摘し、同時に再建する手術を受けた。後で人工乳房を挿入するため、胸の皮膚を伸ばす器具を入れた。

 ところが、11年に行った放射線治療によって皮膚がダメージを受け、伸びにくくなっていた。手術を受けてからしばらくは寝ても起きても、ズーンという鈍い痛みが続き、再建手術を受けたことを後悔したほどだった。

 痛みよりもつらかったのは、がんを周囲に黙っていたことで生まれた罪悪感だった。

 「再発を繰り返し、再建手術も受けた経験を話せば、勇気を持ち、励みとしてくれる人がいるかもしれない」。治療が一段落したタイミングで、公表しようと考えた。15年10月に人工乳房を入れ、その際、雑誌の取材を受けた。

 「話をして楽になり、自分を素直にさらけ出せるようになった気がしました」。周りからは「前よりも明るくなったね」と声をかけられた。今も治療薬を飲み続けるが、その後、再発はしていない。

 闘病生活の支えになったのは、家族の存在だ。「自宅にいれば私が家事をやり、治療や仕事でいなければ夫がする。うちの中では、がんの話をすることもなく、普通に暮らせるよう、夫や娘が心がけてくれたことが生きる力になりました」 
タグ:生稲晃子

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