SSブログ

旅行なら楽天トラベル

大橋未歩アナ [芸能]

スポーツ、報道、バラエティー番組――。テレビ東京の看板アナウンサーとして駆け抜けた大橋未歩アナ昨年12月に退社。フリーとして新たな一歩を踏み出している。

 「今まで生きてきた中で一番幸せ」。1992年のバルセロナ五輪。同い年の岩崎恭子さんが金メダルを手に語る姿に魅了された。

 「どんな景色が広がっているんだろう」

 いつか五輪の舞台に立つと心に決めた。いまからスポーツ選手になるのは難しい。それなら、取材する側で行こう。

 テレ東に入社すると、ほどなくチャンスは回ってきた。アテネ、北京、ロンドンの3大会に携わった。

 プロ野球取材では、優勝後の祝勝会に何度も立ち会い、ビールまみれになりながら監督や選手の喜びの声をリポートした。スポーツキャスターとして充実していた。

 「スケジュール帳が仕事でびっちり埋まっていることが幸せでした。楽しくて仕方なかったんです」

 休みの日も取材に出かけた。もともと体力には自信があった。熱が出ても、よく食べて寝れば、翌日には回復した。

 「根性でどうにかなると思い込んでいました。正直、自分の体は二の次で……」

 健康診断でも異常はなかった。しかし、入社11年目の冬、思いもかけない病魔に襲われることになる。脳梗塞(こうそく)だった。

<フリーアナウンサー・大橋未歩さん>突然の脳梗塞、「らいじょうぶ」ろれつ回らず記憶も断片的…
大橋未歩さん(写真・米田育広)
致命箇所を外れる幸運
 感覚がない。自分の左手なのに、マネキンの手を触っているよう――。

 2013年1月の夜、寝支度をしようと洗面所に立った。何かおかしいとは思ったが、そのまま洗顔クリームに手を伸ばした。つかみ損ねて床に散乱した。片付けようとして倒れた。

 異変に気付いた家族が助けに来てくれた。救急車を呼ぼうとしている。でも、大ごとにはしたくない。

 「らいじょうぶ」

 ろれつが回らず「大丈夫」と言えない。記憶はそこから断片的でしかない。

 15分ほどして、急に意識は明瞭になった。体も自由に動いた。「何だったんだろう」。到着した救急病院でCT(コンピューター断層撮影法)で診察した。異常なことは何も映っていない。症状を説明すると、改めて脳の精密検査を受けるよう勧められた。

 翌々日にMRI(磁気共鳴画像装置)の検査室から出ると、車いすが用意されていた。4か所の脳 梗塞こうそく があると告げられ、絶対安静を指示された。

 「え? こんなに元気なのに?」。驚いて尋ねると、担当医は諭すように説明した。「たまたま致命的な場所をはずしていただけです」

 「たまたまかぁ……」

 重い言葉だった。目標を決めて努力すれば、何でもかなうと信じていた。体も、気持ちでどうにかなると考えていた。その考えの傲慢(ごうまん)さに気付かされた。

脳梗塞と診断され、長期の休養を余儀なくされた。社内でも“健康優良児”で通っていただけに、初めての経験に戸惑った。

 テレビでは、代わりに入った後輩のアナウンサーがうまく番組を切り盛りしている。

 「私がいなくても、番組も社会も差し障りなく動いているんだ」

 テレビ局には必要とされていると思っていた。それが無上の喜びでもあった。現実を突きつけられると、社会から取り残されているような疎外感を覚えた。

 休養中は、神戸の実家に戻った。山の手を歩くと、春を待つ桜の木々が目に入ってくる。

 「花を咲かせるにはつぼみの期間が必要。今の自分にとってもこの休息は必要なことだったんだ」。言い聞かせるうちに、病気を受け入れられた。

 脳梗塞の原因は、内頸(けい)動脈の解離で出来た血栓が脳に飛んだこと。数か月様子をみても解離した部分は治らず、付き合っていくしかないと言われた。

 「爆弾を抱えて生きるのは嫌だな」。信頼できる医師に巡りあい、再発を防ぐため首の血管にステント(網目状の金属)を入れることを決めた。今は薬も不要で、年1回の検査に通うだけで済んでいる。

 「医学の進歩のおかげですね。このステントなしでは生きていけない。私のお守りです」

<フリーアナウンサー・大橋未歩さん>突然の脳梗塞、「らいじょうぶ」ろれつ回らず記憶も断片的…
大橋未歩さん(写真・米田育広)
パラリンピック、全力で伝える
 8か月の療養生活で、健康の大切さを痛感した。体を気遣い、定期的に運動するようになった。予防だけでなく、体の違和感を見逃さないことが大事と考えるようになった。

 驚いたのは、価値観の変化だった。

 「いつ死ぬか分からないものなんだなって。もっと自分の言葉で発信したいって思うようになりました」

 勤めていたテレビ東京も仕事も大好きだった。ただ、局に所属するアナウンサーの主な仕事は、台本の内容を正確に伝えること。その枠を超えてみたくなった。視聴率も、以前ほど大切に思えない自分が苦しかった。優先順位があまりに明確になり、戸惑った。

 昨年12月に退社した。パラリンピック取材に取り組む。

 「五輪を終えた時、このまま帰っていいのかなって、ずっと心のどこかがチクチクしていたんです」。入院中に、体のまひを抱えた患者に出会ったことも大きい。

 障害を抱える選手からは「(相手の)障害部分を狙うことこそが相手へのリスペクト」と取材で聞き、それを上回る戦略や技術を練ることが重要と知った。

 「新鮮な世界だった。この新しい面白さを、五輪の時のように全力で伝えたい」

 東京も、そして、その先も。ライフワークとして取り組むつもりだ。


共通テーマ:テレビ
ハラ武井咲 ブログトップ
SEO対策テンプレート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。